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緩和ケアを取り巻く課題と川崎市における取り組み―がん患者の心と体の苦痛を取り除くためにできることは

 公開日:2026/05/08
緩和ケアを取り巻く課題と川崎市における取り組み―がん患者の心と体の苦痛を取り除くためにできることは

がん患者さんに対する「緩和ケア」は、かつて「終末期の痛みを取り除く」ものとみなされてきました。しかし近年、緩和ケアの役割は変わりつつあります。早期からの緩和ケアを経て、世界の潮流は「地域社会全体の緩和ケア」へとシフトしています。第23回日本臨床腫瘍学会学術集会(JSMO 2026)で、川崎市立井田病院 腫瘍内科部長/一般社団法人プラスケア代表理事の西智弘氏が「PAP特別企画 診断時からの緩和ケアを考える」の演題で、緩和ケアを取り巻く課題や、川崎市で展開している病院内外での取り組みなどについて講演しました。内容を再構成してご紹介します。

「終末期」から「地域全体」へ―緩和ケアのあり方の変遷

まず、緩和ケアの歴史と現状について振り返ってみましょう。

今から20年前、緩和ケアといえば「終末期」のイメージが非常に強いものでした。がん患者さんが最後の時間をホスピスに入って過ごし、亡くなられるプロセスを支えるものとして私たちも教育されてきましたし、一般の人たちにもそうしたイメージが強く定着していたと思います。しかし約10年前、「早期からの緩和ケア」という新しい概念が登場しました。がんの診断が下されたそのときから緩和ケアが介入し、治療のプロセスと並走して支え続けることが、患者さんのQOL(生活の質)を向上させたり、生存期間を延ばしたりするという研究データが公表されました。そして現在、世界の潮流はさらに先のステージへと進み、「地域全体の緩和ケア」へと大きくシフトしています。

日本国内の状況に目を向けると、早期からの緩和ケアという段階すら十分に行き届いているとは言えない現実があります。2015年頃には、国内でがん治療中に受診できる緩和ケア外来はほとんど開設されていませんでした。しかしそれが2022年の全国調査になると、緩和ケア病棟を開設している457施設のうち少なくとも138施設(30%)が早期からの緩和ケア外来を開設するまでになりました。自院に通院している方なら受診できるという施設も合わせると、209施設(46%)で受けられるようになっています。

数字だけ見れば進歩していますが、地域格差がかなり大きいのが深刻な問題です。福岡、大阪、東京周辺などの都市部に集中している一方で、北海道、東北、四国、中国地方などにおいては、同じ県内であっても100km圏内に受診できる緩和ケア外来が一つもないという地域がたくさんあります。

社会、精神、肉体…「三つの死」の概念の時間差が生む苦痛

私たちが「死」を扱う際、心肺停止などの「肉体的な死」が一番分かりやすい概念です。しかし、そのずっと前に「精神的な死」「社会的な死」が訪れると、私は考えています。病気が発症し、体が弱っていったり、過酷な治療に専念しなければならなくなったりしたとき、患者さんはそれまで担っていた社会的役割を次々と失っていきます。「社会的な死」です。

強い心を持っている人も多いので、社会的役割を失っても「それでも家族のために生きていこう」と必死に頑張ります。しかし、さらに体が弱り、ベッドでただ天井を眺めるだけの生活になってしまったときに、「もう自分には生きている価値がないのではないか」「早く死なせてほしい」と言い出すことがあります。「精神的な死」です。

患者さんは、社会的な死、精神的な死、そして肉体的な死を順番に迎えるわけです。社会的な死や精神的な死から、最終的な肉体的な死までのタイムラグが長ければ長いほど、患者さんは長く深く苦しむことになります。私が理想と考えているのは、社会的な死や精神的な死そのものをなくすことですが、病状によってはそうならないパターンもあります。だからこそ、せめて肉体的な死と、社会的な死・精神的な死をなるべく近づけるように、苦しむ期間を短くできるように支援できないかと考えているのです。

必要なタイミングで緩和ケアに入る方法の模索

早期からの緩和ケアを充実させるため、腫瘍内科と早期からの緩和ケアが統合された外来モデルが提唱され、QOLの改善、症状緩和、生存期間の延長が期待できると報告されました。しかし、最初からずっと緩和ケアの専門家が付きっきりで関わっていくのは医療システムとしても大変ですし、患者さん自身にも負担を強いる部分があります。

そこで現在、「Stepped Palliative Care(段階的緩和ケア)」という概念が発表され、注目を集めています。最初から統合された緩和ケアを提供するグループと、患者さんに4週間ごとにアンケートを書いてもらい、QOLが10%落ちた段階から初めて緩和ケアの専門家が関わるグループを比較した研究があります。その結果、両グループのQOLに大きな差はありませんでした。このため、患者さんにも医療者にも過度な負担がかからないように、必要なタイミングで緩和ケアが入っていく方法が世界的に模索されているのです。

人間が生活の中で受ける苦痛のうち、診察室の中で解決できる問題はわずか5%にすぎません。残りの95%は生活の中で生じているにもかかわらず、医療者はこの5%の問題ばかりにかかずらわって、残りの95%が見過ごされている可能性があります。死や喪失というものは、決して取り除くことはできない普遍的なものです。だからこそ、日常の中に永続的に存在するものとして扱い、誰かが亡くなりそうなときに地域住民たちが自然に「助けに来ましたよ」と動き出すような、非日常のものを日常のケアとしていくまちづくりこそが、コンパッション都市の考え方なのです。

こうした理念のもと、私たちが活動する川崎市では、当院を中心に治療ステージが変わってもずっと診られる体制をとっています。「Embedded Palliative Careモデル」と呼ばれるこの体制は腫瘍内科と緩和ケアが統合されたモデルで、治療を始めた人が最後まで同じ病院でかかり続けることができる仕組みになっています。

病院外だから作れる「対話の環境」

病院外の、生活に近い面を支えていく拠点として、プラスケアが展開しているのが「暮らしの保健室」です。ここでは、私たちは白衣を着ることも、医療者として名乗ることもなく、コーヒーを飲みながらざっくばらんにお話しする環境を作っています。病院や医療制度の枠を超えて、誰もが気兼ねなくつながれる環境を用意しているのです。あるとき、妻ががんになったという方が「暮らしの保健室」にお話しに来られました。じっくりと話を聞いていくと、彼は妻の病状のことだけでなく、妻を失うことに対するご自身の深い苦しみとも闘っていることがうかがえました。愛する人が苦しんでいるのに、何もできない自分がいかに苦しいかということを、暮らしの保健室で吐露されたのです。

このような対話の環境は、病院の中や診察室では非常に作りにくいものです。ふらっと立ち寄ってお話ができる環境が街の中に一つでもあれば、病気になっても安心して暮らせる街と言えるのではないかと考えています。今では10代から90代まで幅広い人が、特に相談がなくてもコーヒーを飲みに来たり雑談をしに来たりします。そういった日常の延長線上に私たち医療者がそっと存在し、本当に必要なときに専門的な支援へとつなげていくネットワークを街の中に作ることが重要です。

「社会的処方」で人を元気に

私たちは「社会的処方」という概念も重視しています。薬で人を健康にするのではなく、地域とのつながりを処方することで人を元気にする仕組みです。例えば、釣りサークルやオーケストラなど、その人の興味・関心や元々持っていた役割に対してつながりを作り直すことができれば、先ほど述べた「社会的な死」を後ろに持っていくことが可能かもしれません。重要なのは、医療者側から緩和ケアの入り口を決めるのではなく、市民が自ら選択できることです。病院に行くハードルが高いと感じる人でも、行きつけのカフェの店長や居酒屋の店主など、街の自然なネットワークを通じて適切なケアにつながっていく仕組みを作っていくことが必要です。

私たちも最初は医師としてがん患者さん向けの場を作ろうとしました。ところが、市民活動として取り組んでいく中で、市民の方から「がんじゃないとだめなのか」と言われました。疾患で分けるのは医療者の発想だと気づかされたのです。そこで現在は、死や喪失という普遍的なものを扱う場所として開いています。ただ、がん患者さん同士で話したいというニーズもあるので、そういった人には患者会やピアサポートグループを紹介するなど、入り口をたくさん作っておくことが大切だと思っています。