~実録・闘病体験記~ 「未来は明るい」ポジティブに多発性硬化症と向き合う
多発性硬化症は脳や神経などに炎症がおきる自己免疫疾患で、さまざまな神経に関連する症状が出る「再発」と、症状が治まる「寛解」を繰り返します。今回はこの多発性硬化症と戦っているMIHOさん(仮称)にお話を伺いました。
※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2021年12月取材。
体験者プロフィール:
MIHOさん(仮称)
札幌市在住、1983年生まれ。夫と二人暮らし。診断時の職業は接客販売。最初の病院では3分で診察が終わり診断がつかなかったが、大学病院で検査を受けて診断がつく。しかし、医療者側の姿勢に疑問を感じて転院。転院先は主治医、看護師が患者の生活や希望を一番に考え、寄り添っていた。その先生たちに出会って闘病生活は一変する。現在は再発することなく経過観察中。
記事監修医師:
村上 友太
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。
しびれが足先から胸の高さまで広がった
編集部
病気に気づいたきっかけとなる症状、出来事を教えてください。
MIHOさん
歩いていて、しばらくすると両脚がしびれ始め、最初は足先だけでしたが、日に日に拡大していき、診断がついたころには胸から下すべてがしびれていました。入浴する際は、水温がわからなくなっていました。
編集部
最初に受診した病院での説明を教えてください。
MIHOさん
最初は内科を受診しました。横になって、お腹をトントンと触診され、「両脚が一緒に痺れる病気なんてありませんよ」と、たった3分で診察も終了し、帰宅しました。
編集部
次の病院ではどのような検査を行うと説明されましたか?
MIHOさん
MRIで脳、首、背中を確認し、髄液検査を受けることになりました。その検査の結果、「多発性硬化症」であることがわかりました。
編集部
病気が判明した時、どのような心境でしたか?
MIHOさん
「何だその病気は? 難病ってことは一生治らないのかな?」くらいで、案外その時は冷静でしたね。
編集部
病気が判明した時、家族や周囲の反応はどうでしたか?
MIHOさん
母はとても心配で、ショックを受けていました。夫は医療従事者ですので「今すぐどうなるということはない」と励ましてくれました。
編集部
どのように治療を進めていきましたか?
MIHOさん
まずは今の症状を抑えるためステロイドパルスを1クール(うち1週間入院)行いました。その後1か月ほど経って、ベタフェロン(自己皮下注射製剤)を始めることになりました。
ベタフェロンでうつになった
編集部
具体的に、治療にはどのような薬を使いましたか?
MIHOさん
ベタフェロンは、うつ症状が出て5か月で中止、コパキソンは、肝機能障害が出て1か月で中止、テクフィデラは、リンパ球減少が認められ中止、現在はタイサブリを使用中です。
編集部
入院中はどのような気持ちでしたか?
MIHOさん
わりと退屈していました。職場の方に借りた漫画を読んだり、お見舞いに来た母と話したりしていました。余計な不安は作りたくないので、この時期はあまりネットやSNSで検索はしませんでした。ステロイドパルスによるムーンフェイスがとても嫌だったのは、はっきり覚えています。
編集部
薬による副作用はありましたか? どのような症状でしたか?
MIHOさん
一番影響があったのは、ベタフェロンでした。通常、うつ病の既往がある方には再発の可能性があるので事前確認されるそうなのですが、私の場合はその確認なく処方され、うつっぽくなりました。投与後にうつっぽくなったことを主治医に言うと、「うつ病経験の確認しませんでしたっけ?」と半笑いでした。6年経った今でもうつ症状は完治していないので、悔しい想いをしましたね。
編集部
病気の情報収集をしたり、体験談を読んだりすることは?
MIHOさん
同じ病気の方のSNSを見たり、直接メッセージをやりとりしたりしました。参考になり、励みにもなりましたね。病名を聞いたこともなかったですし、周囲に同じ病気になった方がいないため、孤独を強く感じていたところだったので、とても助けられました。
編集部
情報収集の際に、何を知りたいと思いましたか?
MIHOさん
私の場合、情報を集めるより、自ら広めることの方が多いですね。自分のSNSに、同じく悩む方から相談がたくさん来るので。
大切なのは医療関係者と患者の信頼関係
編集部
医師や看護師など、医療関係者からの説明は十分でしたか?
MIHOさん
これは先生によりました。同じMRI画像を見ても、診断結果は分かれましたし、ベタフェロンでの事前のうつ確認の事も含め。今通院している病院は4院目で、良くしてもらっていますが、それ以前の病院では、患者への情報提供が不十分だったと感じました。患者はそれぞれ症状が異なり、生活環境も違います。患者さん一人ひとりに向き合ってほしいですね。
編集部
では、コミュニケーションは取りやすかったですか?
MIHOさん
それも病院によりました。話しやすいところ、患者の声を全く聞いてもらえないところ、色々あります。中でも、30歳で妊娠を諦めていなかったのに「妊娠なんて言ってる場合じゃないよ」と言われたことは今でも忘れません。今の病院の主治医は、「全く妊娠を諦める必要はないよ」とも言ってくださり、結婚したことも自分のことのように喜んでくださいました。
編集部
治療開始後、生活、仕事にどのような変化がありましたか?
MIHOさん
自分の新しい可能性を見つけるようになりました。健康なときには後回しにしていたようなことを実践したり、新しい趣味などを始めたり、知人に誘われて登山にも行きました。
編集部
治療中の心の支えとなったものは、何でしたか?
MIHOさん
ずっとそばにいてくれた夫、私の病気を良い意味で気を使わずに遊びに誘ってくれる友達ですね。そして甥っ子、姪っ子とは一緒にあそんでずっと成長を見て行きたい、という支えになっています。
「大丈夫、なんとかなる」
編集部
もし昔の自分に声をかけるとしたら、どんな助言をしますか?
MIHOさん
「案外、普通に生活していますよ。当時、不安に思っていたほとんどのことは起こりません。むしろ、趣味が増え、結婚生活も楽しんでいますよ」と。
編集部
現在の体調、生活、仕事の様子を教えてください。
MIHOさん
24時間、足はしびれています。手の指も痺れることが多いです。うつが原因で仕事は辞めましたが、それまで仕事人間だったので、今まであまり行けなかった旅行や、趣味のカメラ、ファッション、コスメなどを楽しんでいます。まだ下手ですが、夏にはスケボーもします。
編集部
最後に伝えたいことなどがありましたら、お願いします。
MIHOさん
この病気になって間もない人から、よく「苦しんでいる」とのメッセージをもらいます。私もそうでした。病歴7年目の私が思うのは「案外大丈夫です。なんとかなりますよ」ということ。もちろん病気でできないことが出てきますが、新しくできることも必ずあります。「いつか薬ができる」に期待するより、1日1日を楽しむこと、その積み重ねが自信になり「なんだ、病気でも大丈夫じゃん、楽しいことたくさんあるじゃん」と思えるようになります。「大丈夫、なんとかなる。未来は明るい」という意識が大切です。
編集部まとめ
MIHOさんが伝えてくれた、難病を患ったからといって絶望を感じる必要はなく、自分の思いと行動次第で未来はいくらでも楽しくできるというメッセージ。現在はポジティブな姿勢で病気と向き合っていますが、そこにたどり着くまでに相当に苦心されたことが想像できます。医療関係者からの情報提供、寄り添う姿勢次第で、患者さんの気持ち、姿勢、治療成績にも影響がありそうです。