【闘病】病院行っても『ストレスのせい…』 やがて難病「多発性硬化症」と判明

子どもの頃から感じていた耳の不調や手足の違和感。よしえさん(仮称)は、25歳のときに突如として左耳の聴力を失い、ついに「多発性硬化症」と診断されます。ネットで情報を集め、自ら治療の道を探し続けたよしえさんが語る、病気との向き合い方とは――。
※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2022年5月取材。

体験者プロフィール:
よしえ(仮称)
1981年兵庫県生まれ。大阪府在住。2007年の25歳の時に多発性硬化症と診断される。体調が安定していなかった30歳までは単発や短期での仕事をしていた。39歳の時に指定難病のIgA腎症と肺の病気を診断され、仕事を続けることが難しい状態になり、40歳でシステムエンジニアとして働いていた職場を退職。その後に結婚。大阪へ引越し、夫と二人暮らしをしている(取材時。現在は妊娠・出産を経て3人暮らし)。

記事監修医師:
村上 友太(東京予防クリニック)
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。
目次 -INDEX-
これ以上この病院では治療できない

編集部
最初に不調や違和感を感じたのはいつですか? どういった状況だったのでしょうか?
よしえさん
子どもの頃から耳が聴こえなくなったり、手や足が動きにくくなったりしていました。難聴は15歳頃だったと記憶しています。手や足については、さらに小さい頃からあった為、最初がいつだったかは覚えていません。病院へ行っても、耳はストレス、手や足は成長痛と言われていました。
編集部
受診から、診断に至るまでの経緯を教えてください。
よしえさん
25歳の時、左耳がほとんど聴こえない状態になり、近くの耳鼻咽喉科を受診し、総合病院を紹介してもらいました。今まで聴こえなくなっていたのは右耳だけだったのですが、この時は左耳に症状が出ました。総合病院で、生まれて初めて脳のMRI検査を受けました。その際、脳に病巣が見つかったのですが、脳神経外科と神経内科の両方を受診しても原因が特定出来ず、確定診断がつかないまま、ステロイド治療を行いました。
編集部
治療の効果はどうでしたか?
よしえさん
ステロイド治療で左耳の聴力が戻りましたが、1か月もしないうちに、次は右耳が全くと言っていいほど聴こえなくなりました。再び総合病院へ行き、すぐにステロイド治療を受けました。ステロイド治療を9日間行ったのですが、今回は効果がでず、聴力がほとんど戻っていない状態で、医師に「これ以上は、この病院で治療できない」と言われました。
編集部
そこからはどうしたのですか?
よしえさん
自分でネットで調べ、ステロイド以外の治療ができる病院を調べました。当時、兵庫県に住んでいたのですが、自宅近くには治療してくれそうな病院はなく、大阪で「高気圧酸素療法」と「デフィブラーゼ療法」という治療をしている病院を見つけました。初診後、すぐに入院することになり、治療が始まりました。2週間ほど治療して、聴力が戻りました。そこで初めて病気について、「多発性硬化症の疑い」と聞きました。
編集部
その後は大阪で治療したのですか?
よしえさん
いいえ。父に状況を伝えたところ、京都に多発性硬化症の有名な先生がいることを調べてくれました。入院中自分で電話して予約を取り、退院後、京都にある病院へ行きました。診察の翌々日には検査入院することになりました。MRI検査と髄液検査が陽性だったことから、「多発性硬化症」と診断を受けました。
編集部
多発性硬化症とはどんな病気なのでしょうか?
よしえさん
自分の体を自分で攻撃してしまう、いわゆる自己免疫疾患で、脳と脊髄、目の神経などに異常が起こる病気です。病巣ができる部位や大きさは人それぞれで違うので、症状の出方やその程度も人によって違います。
編集部
どのように治療を進めていくと医師から説明がありましたか?
よしえさん
「指定難病」で、今の医学では完治はしない。再発を繰り返す病気だから、再発を抑制する薬を使っていくとのことでした。 そして、もし再発した時にはステロイドパルス療法をしますと。当時、再発を抑制する薬は自己注射のものしかなかったのですが、飲み薬の新薬が開発されており、医師に「治験に参加してはどうか?」と勧められて、治験に参加することになりました。
ネットを活用し、調べてすぐに行動

編集部
多発性硬化症が判明したときの心境について教えてください。
よしえさん
今の医学では完治しないと聞いて、「なんで私が?」と思いました。仕事が楽しくなってきていた時期だったので、「続けることができなくなるかも」と、不安にもなりました。
編集部
実際の治療はどのようにすすめられましたか?
よしえさん
治験が始まるまでは再発抑制剤を使うことはできなかったので、その間で再発した時には、ステロイドパルス療法と痺れの為の緩和薬を服用していました。再発抑制剤の経過としては、2008年4月から治験を開始し、2017年3月まで「ジレニア」、「イムセラ」というお薬を服用しました。最初は治験薬でしたが、後に承認されました。その後は、「テクフィデラ」→「タイサブリ」→「ケシンプタ」と再発抑制剤は変わっています。
編集部
治療や闘病生活の中で、支えになったことなどあれば教えてください。
よしえさん
家族や友達が心の支えとなりました。また、ネットで情報収集したり、SNSなどで同病者と繋がりを持ったり、悩みを相談したりすることで、気持ちがすごく楽になったのを覚えています。
編集部
病気の前後で変化したことを教えてください。
よしえさん
働いていた職場は退職することになりました。体が思うように動かなかったり、痺れがあったりしたことからうつ状態にもなり、体調が安定していなかったので、再就職も難しくなりました。
編集部
自分がかかった病院や受けた治療について、思うことはありますか?
よしえさん
左耳の症状が出てから診断がつくまでには3ヶ月かかりましたが、ネットを活用し、調べてすぐに行動することができたので、これが最善だったのではないかと思っています。
→(後編)【闘病】「多発性硬化症」になったからこそのヘルプマークへの想い
※この記事はMedical DOCにて<【闘病】耳が聴こえづらかったのは「多発性硬化症」のせいだった>と題して公開した記事を再編集して配信しており、内容はその取材時のものです。
なお、Medical DOCでは病気の認知拡大や定期検診の重要性を伝えるため、闘病者の方の声を募集しております。皆さまからのご応募お待ちしております。