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ノーベル賞研究が「がん治療」を変えた。坂口志文氏が発見した制御性T細胞(Treg)とは

 公開日:2025/10/29

体を守るはずの免疫が、自分自身を攻撃してしまう。そんな"暴走"を止める仕組みを発見したのが、大阪大学特任教授の坂口志文先生です。1990年代の研究で明らかにされた「制御性T細胞(Treg)」の発見は、自己免疫疾患の謎を解き明かしただけでなく、がん免疫療法に革命をもたらしました。この功績が高く評価され、坂口先生は2025年、ノーベル生理学・医学賞を受賞されました。今回は米国のがん研究者である大須賀先生に、坂口先生の発見はがん治療をどのようなに変えたのか詳しく伺いました。

大須賀 覚

監修医師
大須賀 覚(米国アラバマ大学バーミンガム校 脳神経外科助教授)

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筑波大学医学専門学群(現・筑波大学医学群医学類)卒業。卒業後は脳神経外科医として、主に悪性脳腫瘍の治療に従事。患者と向き合う日々の中で、現行治療の限界に直面し、患者を救える新薬開発をしたいとがん研究者に転向。現在は米国で研究を続ける。近年、日本で不正確ながん情報が広がっている現状を危惧して、がんを正しく理解してもらおうと情報発信活動も積極的におこなっている。

「免疫にも"ブレーキ"がある」制御性T細胞の役割

編集部編集部

はじめに、坂口先生の発見した「制御性T細胞」とはどのような役割を持つ細胞なのか教えてください。

大須賀 覚先生大須賀先生

体の中にいる免疫細胞は、警察官のように体内をパトロールしていて、ウイルスや異常な細胞を見つけるとすぐに捕まえて排除する役割をしています。免疫細胞はときに暴走して、正常な細胞まで誤って攻撃してしまうことがあります。そうした"暴走する免疫細胞"を抑える役割をしているのが「制御性T細胞」です。免疫のバランスをとり、過剰反応を防ぐブレーキのような役割を果たしています。例えるならば、暴走するヤンチャな若手警官を抑える警察本部の指揮官のようなものです。

編集部編集部

免疫は強ければ強いほど良い、というわけではないのですね。

大須賀 覚先生大須賀先生

その通りです。免疫がしっかり働くことは良いことなのですが、これが暴走しすぎると悪さもしてしまうのです。制御性T細胞は、免疫のバランスを保つ"調整役"です。90年代より前には免疫細胞には攻撃するものだけがあって、抑える細胞がないという考えが主流でした。しかし、坂口先生は1990年代に、この細胞の存在を世界で初めて明らかにし、「免疫細胞の中には免疫を抑える細胞もある」という新しい概念を打ち立てました。

編集部編集部

制御性T細胞はどのようにして働くのでしょうか?

大須賀 覚先生大須賀先生

制御性T細胞は周囲の免疫細胞に「攻撃するのをやめろ」という指令を出します。直接的に周囲の免疫細胞にくっつくことで抑えたり、サイトカインという"情報伝達物質"を出して抑えたりします。警察本部の指揮官がヤンチャな警官を直接制止したり、大声でやめるようにいったりするような感じですね。この仕組みがうまく働くことで、免疫の暴走は防がれています。これがうまくいかないことが、関節リウマチや1型糖尿病などの自己免疫疾患やアレルギーのひとつの原因となっています。

編集部編集部

なぜこの重要な細胞の発見に時間がかかったのでしょうか?

大須賀 覚先生大須賀先生

免疫応答を抑制する免疫細胞なんていないという思い込みが影響していました。坂口先生は独自の発想と的確な実験手法で、この"隠れた指揮官"を見つけ出したのです。特に、制御性T細胞を見つけ出すためのマーカーを同定したことによって、研究は大きく発展していきました。

「がん細胞の狡猾な戦略」免疫の"ブレーキ"を悪用する

編集部編集部

坂口先生の研究は、がん治療にも関係していると伺いました。

大須賀 覚先生大須賀先生

がん細胞は体の中に生まれた"犯罪組織のボス"のような存在です。がん細胞は体内の異常細胞で、本来なら免疫の警察官に取り締まられるはずです。しかし、がん細胞はなぜか捕まらなくて、取り締まりを逃れています。この取り締まりを逃れる方法はいろいろとあるのですが、そのカラクリのひとつが、制御性T細胞を利用するというものでした。

編集部編集部

犯罪組織が警察本部の指揮官を抱き込むような感じでしょうか?

大須賀 覚先生大須賀先生

まさにその通りです。がん細胞は自分の周りに制御性T細胞を集めて、免疫細胞の攻撃を止めてしまうのです。攻撃部隊の警察官がそばにいても、本部のお偉いさんがこれは攻撃するなと制止するため、攻撃をやめてしまう。制御性T細胞がブレーキをかけてしまうため、がん細胞が見逃されてしまうのです。これが、がんが免疫の目をすり抜けて生き残る大きな理由のひとつです。

編集部編集部

免疫細胞が攻撃しない理由は制御性T細胞にあったのですね。

大須賀 覚先生大須賀先生

はい。この発見で、「免疫ががんに勝てない理由」のひとつが理論的に説明できるようになりました。がんは免疫を抑える"仕組み"を自分の味方につけていたのです。坂口先生の研究がなければ、このメカニズムは見えてこなかったでしょう。実際、多くのがん患者さんの腫瘍組織を調べると、制御性T細胞が多く集まっていることが確認されています。

「免疫チェックポイント阻害剤」とは 坂口氏の発見がもたらした臨床革命

編集部編集部

坂口先生の発見が、どのようにして新しい治療法の開発につながったのでしょうか?

大須賀 覚先生大須賀先生

制御性T細胞の働きがわかったことで、制御性T細胞を含めた免疫へのブレーキを抑える薬剤の開発へとつながりました。制御性T細胞やほかの免疫抑制をする細胞の表面には、「CTLA-4」「PD-1」などの免疫細胞をブロックするのに大事な働きをしているタンパクが出ていて、これらをブロックする薬、いわゆる「免疫チェックポイント阻害剤」で抑えられることがわかりました。

編集部編集部

免疫チェックポイント阻害剤について教えてください。

大須賀 覚先生大須賀先生

この発見はジェームズ・アリソン博士や本庶佑先生の功績で、こちらも2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。免疫を抑えつけていた"足かせ"を一時的に外して、再びがんを攻撃できるようにする薬です。警察本部の指揮官への命令を一時的に停止する特別措置のようなものですね。坂口先生の発見は免疫制御の理解を深化させて、免疫抑制機序を外す薬の開発へとつながっています。

編集部編集部

実際にどんな効果が見られたのですか?

大須賀 覚先生大須賀先生

メラノーマ(悪性黒色腫)や肺がんなどで、これまで治療が難しかった進行がん患者さんが長期生存できるようになりました。例えば、進行メラノーマ患者さんの5年生存率は、従来の5〜10%から約40%まで改善しています。治らないとされていたがんが「慢性疾患としてともに生きる病」に変わりつつあります。坂口先生の発見が基盤となって、手術・放射線・抗がん剤に次ぐ"第四のがん治療"の扉を開いたのです。

編集部編集部

一方で、副作用もあると聞きます。

大須賀 覚先生大須賀先生

そうですね。免疫チェックポイント阻害剤は免疫のブレーキを外すため、免疫が正常な臓器への攻撃を誘引してしまうことがあります。肺炎や大腸炎、肝障害、甲状腺機能障害などの副作用が代表的です。つまり「免疫を強めること」と「制御すること」は常に表裏一体なのです。坂口先生の発見は、免疫のバランスをどう取るかという課題も同時に突きつけています。

編集部編集部

すべてのがん患者さんに効果があるわけではないのですか?

大須賀 覚先生大須賀先生

残念ながら、免疫チェックポイント阻害剤はすべてのがん患者さんに効くわけではありません。しかし、坂口先生の発見は「なぜ効く人と効かない人がいるのか」を理解する土台となり、より良い治療法の開発へとつながっています。制御性T細胞の数や働きを調べることで、治療効果を予測する研究も進んでいます。

編集部まとめ

坂口先生による制御性T細胞の発見は、免疫学における大転換点であったということです。免疫は攻撃と防御だけでなく、常に「抑制」との均衡で成り立っている。その原理を示した功績は、がん免疫療法の基礎を築いただけでなく、自己免疫疾患やアレルギー、臓器移植など多くの分野に影響を与えています。がんという"体内の犯罪組織"に立ち向かう医療の現場では、今も坂口先生の発見が生きています。免疫のブレーキとアクセル、その絶妙な調整こそが、これからの医療の鍵になるでしょう。坂口先生の研究は、「見えないものを見つける」という基礎研究の重要性を示しています。患者さん一人ひとりに最適な治療を届けるために、免疫の仕組みをさらに深く理解する研究が、今日も世界中で続けられています。

この記事の監修医師