「海外なら薬があるのに…」“新薬が届かない”日本のがん医療が直面する危機

「もし自分や家族が、希少がんと宣告されたら?」――そう考えたとき、「国民皆保険の日本ならきっと何かしらの治療が受けられるはずだ」と期待するかもしれません。しかし現実では、海外で有効性が証明され使われている薬が、日本では制度上使えない「ドラッグ・ラグ/ロス」と呼ばれる事態が進行しています。第23回日本臨床腫瘍学会学術集会(JSMO 2026)では、国立がん研究センター東病院 病院長/先端医療開発センター長 土井俊彦先生が「希少がんに対する新規治療薬の開発」という演題で、日本の医療が抱える治療薬開発の構造的課題や、適切な治療を受けるために患者さん自身が意識すべきことについて解説しました。講演内容を再構成してお届けします。
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治療薬があるのに使えない「ドラッグ・ロス」の残酷な現実
「希少がん」と聞くと、ごく一部の人がかかる特異的な病気で、自分には関係ないと感じる人も多いかもしれません。しかし実は、希少がんとは約190種類もの多様な疾患群の集まりであり、がん全体の約2割(15〜22%)を占めています。すなわちがん医療において希少がんは決して「例外」ではなく、だれにとっても他人事とは言い切れません。現在、日本の希少がん患者さんが国際的な標準治療から取り残される「ドラッグ・ラグ」と「ドラッグ・ロス」が深刻化しています。これは世界に薬が存在しないわけではなく、国際的に承認されている標準治療薬が日本では使えないという構造的な問題によるものです。
海外の開発戦略は、従来モデル「メガファーマ主導」からの脱却
日本でドラッグ・ラグ/ロスが起こっている重大な要因の一つは、従来モデルである資金力を有する巨大製薬会社(メガファーマ)から、新興バイオ企業へと新薬開発の主役が移り変わったことにあります。新興バイオ企業は資金と人員が限られるなかで早期開発するため、コストと時間を削らざるを得ません。また、希少がんに対し有用性が期待できる薬剤は、国際共同試験を経ず承認に至る場合もあります。こうした要因から新興バイオ企業は自国での開発を優先し、日本での治験をスキップしているのです。
イヌの実験データを人間に応用? 海外の新薬開発法は大きく変化
このほか、海外では希少がんの新薬の早期開発を実現するために、さまざまな工夫を凝らしています。たとえばSharing Medicine(人獣共通医療学)という取り組みでは、血管肉腫という超希少がんのイヌに試験薬を投与し、有効性が確認できた場合はヒトの臨床試験の根拠として認めるという動きも出てきています。これは、イヌの血管肉腫とヒトの血管肉腫は遺伝子レベルで驚くほど一致しているという事実に基づいた応用技術です。しかし、日本の厳しい制度下では認められない取り組みでしょう。すると、さらに開発の遅れが生じてくることになります。
「全国で同じ治療」の落とし穴―日本の医療制度が抱える“光と闇”
日本が新薬開発に遅れを取っている背景には、「国民皆保険」という医療制度が抱えるジレンマも潜んでいます。日本の医療制度は「全国どこでも同じ標準治療が受けられる(均てん化)」という理念のもとに構築されてきました。しかし、この理念が希少がんの新薬開発においては障壁となっています。
さらに、日本で新薬が承認・発売された場合、皆保険制度の下では全国へ薬を滞りなく流通させる責務が生じます。この責務は希少がん患者さんのために全国規模の流通網を整備する「過剰投資」の必要性を意味し、日本における開発遅延の要因となっているのが現状です。
また、希少がんの患者さんが全国の病院に「分散」することで、どの病院にも十分な症例(経験値)が集まらない事態が発生します。症例数が少なければ腫瘍内科医の経験値(=治療の質)も向上しません。この状況は海外企業から見れば治験のコストパフォーマンスが極めて悪く、日本の治験参加率低下につながる可能性もあります。
さらに問題となるのは、「未承認薬の使用」と「保険診療制度(=経済的保護)」の間にある壁です。日本の保険診療は原則的に承認薬のみが対象であり、皆保険制度によって国民は経済的保護を受けています。一方で、この強固な制度は「未承認薬へのアクセス」を遮断しています。日本では混合診療が原則禁止されており、未承認薬を使うと治療費は全額自己負担となります。それでも治療を受けたいと、数千万円の自己負担を背負って海外まで治療を受けにいく患者さんもいるほどです。「治るかもしれない薬が世界にはあるのに、制度の壁に阻まれて日本で使えない」――。今の日本では、このような絶望が患者さんとご家族に重くのしかかっています。
世界の希少がん治療薬を日本へ―カギを握るのは「集約化」
ドラッグ・ラグ/ロスの状況を打破し、世界の新薬を日本にも導入するために求められるのは、希少がん診療の「分散」から「集約」への移行だと考えます。希少がんの治療においては正確な診断と最先端の遺伝子プロファイリング(解析)が重要となり、専門知識の集約化が不可欠なためです。同時に、希少がん診療の質および経済性を考慮し、専門知識が集まる拠点施設へ全国の患者さんがスムーズにアクセスできる体制を確保することも不可欠になってきます。
なお「情報の集約化」の成功例として、すでに日本では産・学・患(産業界・学術界・患者)協働の治療開発基盤「MASTER KEY Project(マスターキー・プロジェクト)」が推進されています。マスターキー・プロジェクトとは、全国の多種多様な希少がん患者さんのデータを一つのデータベースに集め、がん種にかかわらず、バイオマーカーに基づく複数の臨床試験を同時に行うプラットフォームの構築です。本プロジェクトは、患者さんが全国に分散してしまうという日本の弱点をデータの集約によってカバーし、治療の機会が限られていた患者さんにより早く新薬を届けるという点で、大きな役割を果たしていると感じます。
がん治療の「正しい情報」へアクセスするために
希少がんと診断され、確立された治療法もないと言われた患者さんが藁にもすがる思いでネット検索に頼り、根拠のない自由診療や民間医療に飛びつく――。こうした行動を起こしてしまうのも無理はありません。しかし、患者さんの体は最も大切な資産であり、安易な行動は非常に危険です。高額な費用が無駄になるだけでなく、未知の物質を体内に取り入れることによる体調の悪化や、科学的に評価された治験に参加する資格を永久に失ってしまう恐れすらあります。
適切な治験への参加資格を守るためには、正しい情報にアクセスすることが重要です。命を左右する治療法を決定するのですから、がん治療に関する情報と経験値が充実している特定機能病院や、がん診療連携拠点病院などが出している情報を自発的に入手し、がんを専門とする医師による適切な診療を受けてください。
「マインドリブート」で世界との共創を
ドラッグ・ラグ/ロス克服のために必要なのは、日本のガラパゴスな制度を海外の新興バイオ企業に押し付けることでも、国民皆保険の標準化理念を放棄することでもありません。一人ひとりが医療の現状を正しく理解し、未知のリスクと適切に向き合うマインドの育成、すなわち「マインドのリブート(再起動)」であると私は考えます。今、希少がんの治療薬の開発はパラダイムシフトが起こっています。海外新興バイオ企業による新規治療薬の開発のあり方を社会全体で受け入れ、産官学患(産業界・官公庁・学術界・患者)が一体となって彼らが日本に参入できる「スタートアップエコシステム」の構築が肝要になっていくでしょう。




