【闘病】足を切断した日は「涙が止まらなかった」 絶望からアジア最速のパラ陸上選手へ《井谷俊介選手》
パリ・パラリンピックで日本代表として男子200メートル(膝から下が義足のT64クラス)に出場した井谷俊介選手。見事に世界の舞台で、7位入賞を果たしました。パラ陸上の100m(T64クラス)のアジア記録保持者でもあります。そんな輝かしいパラアスリートになる以前、交通事故で足を切断するという絶望を体験。運命を変えた事故(2016年)から現在までの道のりや、競技に懸ける想い、そしてこれからの目標などについて話を聞かせてもらいました。
※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2024年10月取材。
体験者プロフィール:
井谷 俊介
1995年4月2日。20歳の時のバイク事故により、壊死した右足の膝から下を切断することに。やがて本格的にパラ陸上競技を開始するや、10ヵ月でアジア大会優勝を果たす。2020年東京パラリンピックを目指していたが、落選。そこから奮起してパリ・パラリンピック陸上競技T64クラス・200mの日本代表に選ばれると、7位入賞を果たした。
記事監修医師:
柏木 悠吾(医療法人社団橘会橘病院)
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。
突然の交通事故。事故直後は右足は残っていた。
編集部
井谷選手が右足を切断されたのは20歳の頃だったと聞きました。
井谷さん
アルバイトの帰りに交通事故に遭い、気がついたら病院のICUにいて、しかも事故から4日も経っていると告げられました。今でも事故の記憶はありません(編集部註:周囲で撮られていた映像などにより、井谷選手が危険運転をしていたわけではないことが確認されています)。目覚めた時点では、まだ右足は切断していなかったのですが、全く動かせず、血色も真っ黒で、回診に来たドクターたちが深刻そうにヒソヒソと話している様子も見ていたので、素人ながらに「良くない状態なんだろうな」とは感じていました。
編集部
軽い事故ではなかったことが窺えます。
井谷さん
記憶が戻っていないことは、不幸中の幸いだったのだと思っています。同じように身体の一部を切断したという先輩の中には、当時の記憶が鮮明に残っていて苦しめられている人もいますので。
編集部
なるほど。切断となったのは、目覚めてからだったのですね。
井谷さん
はい。「右足が壊死してきている」「時間が経つほど壊死の範囲は広がっていく」「このままだと命にかかわる」と医師から説明をうけ、切断しなければならない状態であることは理解できました。さらに「義足をつければ今まで通りの生活ができる」とも言われたので、迷うことなく「早いほうが範囲が小さくて済むのなら、早く切断してください」とお願いしました。
編集部
手術した日のことも聞かせていただけますか?
井谷さん
「早く切断したほうが良い」と頭では理解し、決意も固まっていましたが、いざとなると動揺しましたし、辛かったですね。手術予定日の2日前にICUから一般病棟に移り、「明後日が手術です」と言われて眠りについた翌日、急遽「手術が今日の午後になりました」と言われ……。そこで初めて「この足が本当になくなるんだ」「障がい者として生きていくんだ」と実感し、怖くて涙が止まらなくなりました。手術が無事終わって家族の顔を見た時も、安心してまた泣いてしまいました。
編集部
切断後はどうでしたか?
井谷さん
※幻肢痛:切断したはずの手や足があるように感じ、その部分に痛みを感じること。
編集部
どうやって気持ちを切り替えたのですか?
井谷さん
少し冷静になった時、「自分が落ち込んでいる姿を見て、家族も友人も辛そうにしている」「自分が周りの人たちの笑顔を奪っている」と気づき、空元気でもいいから明るく振る舞ってみようと思うようになりました。最初は本当にただの空元気で、夜、1人になると悔しさや辛さに苛まれましたが、それでも続けていたら、いつの間にか本当に元気になっていったんです。
義足で走り、新たな目標ができた
編集部
義足のリハビリはいかがでしたか?
井谷さん
「義足をつけたらなんでもできるよ」と言われていたので、義足のリハビリを待ちわびていたのですが、いざ義足をつけて立ち上がってみると、びっくりするほど痛くて、松葉杖や平行棒に捕まっていても右足に体重をかけられませんでした。「最初だからかな」と思ったのですが、翌日も同じように激痛なんです。「先生の言葉は嘘じゃないか」「もう車椅子生活でいい」と、この時も心が折れてしまいました。
編集部
期待していたぶんだけ、辛かったのですね。
井谷さん
編集部
「義足で走る」こととの出会いはどういうものだったのですか?
井谷さん
母から「三重県に、義足のランニングクラブがあるから行ってみようか」と言われたのがきっかけでした。当時は、走りたかったというよりも「義足で生活している人の話を聞きたい」という想いで参加しました。行ってみて感じたのは、「みんな普通だ」ということです。自分は障害を持っていることにネガティブな思いがあったのですが、そこにいた全員が普通に明るく元気で、楽しそうに走っていました。そこで初めて「自分も走りたい」と思ったんです。いざ走ってみると、自分の力で風を切る感覚が気持ちよくて、心から笑顔になれました。
編集部
それが、パリ・パラリンピック出場への第一歩だったのですね。
井谷さん
はい。走った時、母がすごく喜んでくれて「自分が走ることで、こんなにも周りを笑顔にできるんだ」「もしパラリンピックに出たら、もっとたくさんの人を笑顔にできるんだろうな」と感じました。といっても、競技用の義足は150万円くらいかかりますし、トレーニングも自己流でやっているだけでは限界があるなど、たくさんのハードルをクリアする必要がありました。事故に遭う前の僕はカーレーサーを目指していたのですが、義足になってからもそのレーサーになるためのトレーニングやサーキットでのアルバイトを続けていたので、そこでのご縁から、レーサーの脇阪寿一さんやトレーナーの仲田健さんと出会い、それをきっかけに一緒にパラリンピックを目指すようになったんです。
自分が前に進めば、人生は必ず拓ける
編集部
事故から義足になり、現在まで印象に残っているエピソードがありましたら聞かせてください。
井谷さん
実は、東京・パラリンピックの出場も目指していましたが、それは叶いませんでした。本当にショックで、半年くらいは走ることへの情熱が持てずにだらだらと過ごしていたら、脇阪さんに「自分を見失ってるぞ!」と叱責を受けたんです。言われてみると確かに、東京・パラリンピックの選考前は初心を忘れていた気がします。「自分の実力を証明したい」「もっと評価されたい」という承認欲求で走っていました。脇阪さんと仲田さんが「原点に立ち返って、次こそ夢を叶えよう」と励ましてくれて、情熱を取り戻せました。2人がいなかったら、自分は堕落したままだったと思います。私にとって、ただのチームではなく、家族のような存在です。
編集部
3年後のパリ・パラリンピックは日本代表として出場されましたが、こちらはいかがでしたか?
井谷さん
これまでの国際大会では、現地に着いたらワクワクしたり高揚したりといった気持ちになっていたのですが、パリはいい意味で普段通りでした。当日会場に入り、トラックに出て、自分のレーンに立っても緊張はなく、これまで応援してくれたみんなの顔が浮かんできて力をもらえましたし、走っている最中に「楽しい!」と思ったのは今までにない感覚でした。やはりパラリンピックは特別な舞台ですね。みんなを笑顔にできましたし、夢を叶えた瞬間でした。
編集部
今後の目標について教えてください。
井谷さん
まずは2028年のロサンゼルスと2032年のオーストラリアのパラリンピックです。2032年には37歳になっていることを考えると、やはりあと2回かなと思っています。もうひとつは、現在、年間30〜40回の講演活動やかけっこ教室をしているのですが、この活動で全国を回りたいですね。自分の活動が、障害や共生社会について考えるきっかけになってくれたらと思いますし、障害者とか健常者とか関係なく、コンプレックスや苦手を受け入れて前向きに生きることの素晴らしさを伝えたいです。
編集部
最後に、読者に向けてメッセージをお願いします。
井谷さん
障がい者でも健常者でも、年齢に伴って、体が動かなくなっていくことは避けられません。そんな時も、運動することで少しでも体の活動性が保てれば幸福度も上がります。アスリートのようなハードな運動でなくても、筋力や基礎体力を維持することはとても大事です。少なくとも私は、体を動かすことで、やさぐれていた気持ちが前向きになりました。交通事故で右足を失って、人生が閉ざされたような感覚になっていましたが、決してそんなことはありませんでした。自分が前に進めば人生は必ず拓けます。この記事を読んでくれた皆さんがパラスポーツに興味を持ったり、障がい者や共生社会について考えたりする入り口になってくれたら嬉しいです。
編集部まとめ
アルバイトの帰りの交通事故から、右足の切断、リハビリ、義足ランとの出会いやパラリンピックへの挑戦などについてお話を伺いました。「(障害者であっても)みんな普通だ」という言葉と、「自分が前に進めば人生は必ず拓ける」という力強いメッセージが印象的でした。井谷選手は、ロサンジェルス・パラリンピックでは走り幅跳びでの出場も目指すなど、これからも挑戦を続けるそうなので、これからもたくさんの人を笑顔にできるよう願っています。
なお、Medical DOCでは病気の認知拡大や定期検診の重要性を伝えるため、闘病者の方の声を募集しております。皆さまからのご応募お待ちしております。