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【闘病】足を切断した日は「涙が止まらなかった」 絶望からアジア最速のパラ陸上選手へ《井谷俊介選手》(1/2ページ)

 更新日:2025/09/05
【闘病】脚を切断した日は「涙が止まらなかった」 絶望からアジア最速のパラ選手になるまで《井谷俊介選手》

パリ・パラリンピックで日本代表として男子200メートル(膝から下が義足のT64クラス)に出場した井谷俊介選手。見事に世界の舞台で、7位入賞を果たしました。パラ陸上の100m(T64クラス)のアジア記録保持者でもあります。そんな輝かしいパラアスリートになる以前、交通事故で足を切断するという絶望を体験。運命を変えた事故(2016年)から現在までの道のりや、競技に懸ける想い、そしてこれからの目標などについて話を聞かせてもらいました。

※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2024年10月取材。

井谷俊介さん

体験者プロフィール
井谷 俊介

プロフィールをもっと見る

1995年4月2日。20歳の時のバイク事故により、壊死した右足の膝から下を切断することに。やがて本格的にパラ陸上競技を開始するや、10ヵ月でアジア大会優勝を果たす。2020年東京パラリンピックを目指していたが、落選。そこから奮起してパリ・パラリンピック陸上競技T64クラス・200mの日本代表に選ばれると、7位入賞を果たした。

柏木 悠吾

記事監修医師
柏木 悠吾(医療法人社団橘会橘病院)
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。

突然の交通事故。事故直後は右足は残っていた。

突然の交通事故。事故直後は右足は残っていた。

編集部編集部

井谷選手が右足を切断されたのは20歳の頃だったと聞きました。

井谷俊介さん井谷さん

アルバイトの帰りに交通事故に遭い、気がついたら病院のICUにいて、しかも事故から4日も経っていると告げられました。今でも事故の記憶はありません(編集部註:周囲で撮られていた映像などにより、井谷選手が危険運転をしていたわけではないことが確認されています)。目覚めた時点では、まだ右足は切断していなかったのですが、全く動かせず、血色も真っ黒で、回診に来たドクターたちが深刻そうにヒソヒソと話している様子も見ていたので、素人ながらに「良くない状態なんだろうな」とは感じていました。

編集部編集部

軽い事故ではなかったことが窺えます。

井谷俊介さん井谷さん

記憶が戻っていないことは、不幸中の幸いだったのだと思っています。同じように身体の一部を切断したという先輩の中には、当時の記憶が鮮明に残っていて苦しめられている人もいますので。

編集部編集部

なるほど。切断となったのは、目覚めてからだったのですね。

井谷俊介さん井谷さん

はい。「右足が壊死してきている」「時間が経つほど壊死の範囲は広がっていく」「このままだと命にかかわる」と医師から説明をうけ、切断しなければならない状態であることは理解できました。さらに「義足をつければ今まで通りの生活ができる」とも言われたので、迷うことなく「早いほうが範囲が小さくて済むのなら、早く切断してください」とお願いしました。

編集部編集部

手術した日のことも聞かせていただけますか?

井谷俊介さん井谷さん

「早く切断したほうが良い」と頭では理解し、決意も固まっていましたが、いざとなると動揺しましたし、辛かったですね。手術予定日の2日前にICUから一般病棟に移り、「明後日が手術です」と言われて眠りについた翌日、急遽「手術が今日の午後になりました」と言われ……。そこで初めて「この足が本当になくなるんだ」「障がい者として生きていくんだ」と実感し、怖くて涙が止まらなくなりました。手術が無事終わって家族の顔を見た時も、安心してまた泣いてしまいました。

編集部編集部

切断後はどうでしたか?

井谷俊介さん井谷さん

手術直後は麻酔が効いていたのですが、麻酔が切れると、切断面の激痛が続きました。正直「激痛」という言葉では言い表せないくらいの痛みです。時間の経過とともにその痛みは軽減していったのですが、その後は幻肢痛(※)に襲われました。精神的な痛みもかなりのものでした。頭では分かっていても、自分の足を見ると本当に途中から無くなっているんです。受け入れられず、心が持たなそうで、2日間は言葉も出ませんでした。事情を知らず「井谷、大丈夫か〜⁉︎」とお見舞いに来た友人たちは皆、言葉を失って帰っていきました。あの頃は自分のことを「世界で一番かわいそうな奴」と思っていました。

※幻肢痛:切断したはずの手や足があるように感じ、その部分に痛みを感じること。

編集部編集部

どうやって気持ちを切り替えたのですか?

井谷俊介さん井谷さん

少し冷静になった時、「自分が落ち込んでいる姿を見て、家族も友人も辛そうにしている」「自分が周りの人たちの笑顔を奪っている」と気づき、空元気でもいいから明るく振る舞ってみようと思うようになりました。最初は本当にただの空元気で、夜、1人になると悔しさや辛さに苛まれましたが、それでも続けていたら、いつの間にか本当に元気になっていったんです。

義足で走り、新たな目標ができた

義足で走り、新たな目標ができた

編集部編集部

義足のリハビリはいかがでしたか?

井谷俊介さん井谷さん

「義足をつけたらなんでもできるよ」と言われていたので、義足のリハビリを待ちわびていたのですが、いざ義足をつけて立ち上がってみると、びっくりするほど痛くて、松葉杖や平行棒に捕まっていても右足に体重をかけられませんでした。「最初だからかな」と思ったのですが、翌日も同じように激痛なんです。「先生の言葉は嘘じゃないか」「もう車椅子生活でいい」と、この時も心が折れてしまいました。

編集部編集部

期待していたぶんだけ、辛かったのですね。

井谷俊介さん井谷さん

その通りです。リハビリ室から、うなだれて病室に戻るところを、ちょうど面会に来ていた友人に見られていたらしく、すぐに駆け込んできて「なにがあったの」「落ち込んでるやろ」と声をかけられました。事情を話すと、「なにを焦ってんだ」「ゆっくりでいいから」と言ってくれて、少し前向きになれたのを覚えています。友人たちはその後も病棟での歩行練習などに付き合ってくれました。「痛い?」や「頑張れ」ではなく、他愛もない普通の会話をしながらです。最初はぎこちないながらも、毎日少しずつリハビリを重ね、2週間くらい経った頃、「あ、歩ける」と思えるぐらいになりました。
切断後

編集部編集部

「義足で走る」こととの出会いはどういうものだったのですか?

井谷俊介さん井谷さん

母から「三重県に、義足のランニングクラブがあるから行ってみようか」と言われたのがきっかけでした。当時は、走りたかったというよりも「義足で生活している人の話を聞きたい」という想いで参加しました。行ってみて感じたのは、「みんな普通だ」ということです。自分は障害を持っていることにネガティブな思いがあったのですが、そこにいた全員が普通に明るく元気で、楽しそうに走っていました。そこで初めて「自分も走りたい」と思ったんです。いざ走ってみると、自分の力で風を切る感覚が気持ちよくて、心から笑顔になれました。

切断後

編集部編集部

それが、パリ・パラリンピック出場への第一歩だったのですね。

井谷俊介さん井谷さん

はい。走った時、母がすごく喜んでくれて「自分が走ることで、こんなにも周りを笑顔にできるんだ」「もしパラリンピックに出たら、もっとたくさんの人を笑顔にできるんだろうな」と感じました。といっても、競技用の義足は150万円くらいかかりますし、トレーニングも自己流でやっているだけでは限界があるなど、たくさんのハードルをクリアする必要がありました。事故に遭う前の僕はカーレーサーを目指していたのですが、義足になってからもそのレーサーになるためのトレーニングやサーキットでのアルバイトを続けていたので、そこでのご縁から、レーサーの脇阪寿一さんやトレーナーの仲田健さんと出会い、それをきっかけに一緒にパラリンピックを目指すようになったんです。

自分が前に進めば、人生は必ず拓ける

この記事の監修医師