信頼してもらわないと届かない 医療情報の発信をライフワークとするがん研究者が気づいたこと〜前編〜
玉石混交の医療情報が溢れる書店やネット空間。がんのような命にかかわる病気の場合、誤った情報は治療のチャンスや命を奪うことにもつながりかねません。そうしたがんの誤情報を正し、正確な情報を届ける発信を続けてきた米国在住のがん研究者、大須賀覚さんに目指したい医療情報発信のあり方についてお話を聞きました。
監修医師プロフィール:
大須賀 覚(米国アラバマ大学バーミンガム校 脳神経外科助教授)
2003年、筑波大学医学専門学群(現・筑波大学医学群医学類)卒業。かつては日本で脳腫瘍患者の手術・治療に従事。その後,基礎研究の面白さに魅了されてがん研究者(専門は脳腫瘍)に。2014年より、米国で難治性脳腫瘍に対する薬剤開発を行っている。臨床と基礎研究の両面を知る背景を生かし,一般向けにがん治療を解説する活動も行っている。
◆公式ブログ:「がん治療で悩むあなたに贈る言葉 アメリカ在住がん研究者のブログ」
記者:
岩永 直子(医療記者)
1973年生まれ。医療記者。東京大学文学部卒業。1998年、読売新聞社に入社し、社会部、医療部、読売新聞の医療サイト「yomiDr.(ヨミドクター)」編集長を経験。17年5月にBuzzFeed Japanに転職し、医療記事を執筆、編集。2022年8月から、本業の傍らイタリアンレストランで接客のアルバイト中。2023年7月にBuzzFeed Japanを退社して、現在はフリーランスの医療記者として活動している。著書に『言葉はいのちを救えるか? 生と死、ケアの現場から』(晶文社)、『今日もレストランの灯りに』(イースト・プレス)がある。
変わらぬ怪しいがん情報
岩永
久しぶりに帰国して、がんに関する情報発信について変化は見られますか?
大須賀さん
重曹だけならそれほど毒性は高くないのですが、こうした情報は「一般的ながん治療や抗がん剤は毒だ」という言説や「がん利権」などを主張する陰謀論とセットになっていて、それをきっかけに標準治療(※)をやめてしまうことが大きな問題です。
ただ、これは日本だけの問題ではなく、全世界共通の社会問題です。「医者は抗がん剤を自分では使わない」「抗がん剤は第一次世界大戦中にドイツで使われたマスタードガス(毒ガス)からできているから危険だ」などもよくありますね。誤解を生む情報です。
※科学的根拠をもとに、その時点で最も効果が高いと確認されている最善の治療法
岩永
アメリカでも怪しいがん治療の本は出版されているのですか?
大須賀さん
「既存のがん治療は危ない。がん利権がある」という陰謀論で標準治療から引き剥がし、「私はこれで末期がんを治した」などの宣伝文句で、独自の健康法・食事法を勧める。みんな似たようなスタイルです。がんだけでなく、新型コロナでもアトピー性皮膚炎でも同じ構図があると思います。
岩永
アメリカのSNSでも怪しい医療情報は出回っているのですか?
大須賀さん
実際にそれが末期がんだったのかもわからないし、普通に標準治療を受けて治ったのかもしれない。それでも「私の食事法のおかげだ」と主張する。アメリカでも日本でも同じです。「がん 根治」などの言葉で検索をして引っかかってくるのがそうした情報です。
それだけで治せると思って、標準治療をやめてしまい、命を危険にさらしてしまう。深刻な問題です。まずは標準治療をしっかりと受けて欲しいですね。
代替療法の全否定は得策ではない
大須賀さん
自分も何か努力したいし、一生懸命最善を尽くしたいと思っている患者さんは多いのです。家族もそうです。そういう願いを満たすものが食事療法だったりします。野菜スープがいいと言われると、一生懸命朝昼晩作って食べる。家族も協力する。効くか効かないかは問題ではなく、「最善を尽くしている」と納得したいという側面もあります。
岩永
そんな患者さんの切ない努力を「エビデンスがない」と言って全否定するお医者さんもいますね。
大須賀さん
だからこそ、お医者さんがそういう患者さんの気持ちも含めてしっかり付き合ってあげる。そして、患者さんが危険な目や詐欺にあわないように見守らなければなりません。
岩永
玄米菜食の食事療法を徹底するとたんぱく質が不足したり、一つの食品にこだわると栄養バランスが崩れたりしますよね。
大須賀さん
岩永
そのためには患者さんが関心を持った代替療法を全否定して決裂しない方がいいわけですね。
大須賀さん
岩永
全否定して患者さんの心が主治医から離れると、優しい言葉をかけてくれる偽医療に引き寄せられてしまうことがありますね。
大須賀さん
人は弱いものです。完璧なことなんてできません。ハワイ大学がんセンター長の上野直人先生もトップレベルの医師なのに、それでも自分ががんになった時に怪しいものに引っかかったと話していました。命の危険を感じたら、怪しいと分かっていてもできるだけのことをしたいと思うのが人間です。
情報発信する人には「ハンドルの遊び」が必要
大須賀さん
岩永
新型コロナの発信でもそうでしたが、デマ情報を発信する側と医師がケンカのようになっています。それを見てどう思いますか?
大須賀さん
みんなが新しいワクチンに不安を覚えて、うちたくないと思う自然な感情に対して受容する気持ちがないと、最終的に信用してもらえません。情報の受け手に信頼されることが情報発信の最大の重要なポイントだと思います。信頼を失ってしまえば、その人はもう話を聞いてくれなくなります。
岩永
私もTwitterを始めた頃はしょっちゅう読者とケンカしていました。それを周りで見ている人が、どう受け止めるかに全然思い至っていませんでした。
大須賀さん
元々、日本人は他人に対して非常に厳しい国民性があると思います。もちろん他人に配慮する面も強いのですが、その配慮の背景には「他人に迷惑をかけたら怒られる」という恐れがあると思います。規律を重んじて、自分が排除されるのを恐れるので、それを破る人にも厳しくなります。
SNSでも少しでもおかしなことをする人をみんなで袋叩きにしていますよね。日本独特の性質ではないでしょうか。
医療に反する医師、放置していいのか?
岩永
がんの場合、誤情報を信じた周りの人が患者さんに代替療法などを勧めるのに患者さんはかなり悩まされています。人の命に関わることなのに、真偽を確かめもせずに勧めるのは本当は恐ろしい行為だと思うのですが、カジュアルにそんなことが行われています。
大須賀さん
大手新聞が嘘を載せるとは思わないから、そんなところで見かけた情報を信じて、病気の人に勧めてしまう。日本社会自体がああいうグレーな商売に対して甘過ぎます。
岩永
アメリカでああいう本の広告が一流紙に載ることはあるのですか?
大須賀さん
岩永
表現の自由は重んじなければならないので、難しいところではあります。よくお医者さん達は「規制当局が問題ある出版物を規制しろ」というのですが、私は検閲に当たるので反対です。誰がどういう基準で判断するかによって、どうにでもコントロールされてしまいかねません。
大須賀さん
ただ、大手メディアがその主張の拡散に手を貸すのはおかしい。命を脅かしかねない情報の広告を1面に出すとか、テレビで紹介するのは、明らかに問題です。
岩永
それはメディアが自主規制としてやるべきだと思うのですが、政府や厚生労働省が規制するのは危ういと思うのです。
大須賀さん
一つは医師免許のコントロールです。日本は問題行動を取る医師に甘すぎて、そのような医師の免許剥奪や停止を行う制度がない。患者の命に関わるような危険なアドバイスを本に書く医師がいても何のお咎めも受けないのは大きな問題です。
岩永
科学的根拠のない免疫細胞療法などを高額な自費診療でやっているクリニックが、まったく取り締られていません。医師の裁量権が大き過ぎて、「がんに効く水です」と水道水を売ったとしても咎められない。アメリカだとどうなのですか?
大須賀さん
ただ、州によっては許されてしまうところもあります。国全体で一貫していません。
岩永
日本では医師がワクチンに反対したり、コロナに効果のない薬を処方したりすることも自由です。
大須賀さん
岩永
こうした内容で医道審議会(厚生労働省の医師や歯科医師ら医療職の行政処分を決める審議会)にかかったことはないですよね。
大須賀さん
実は、民事裁判でも訴える人がそう多くない問題があります。詐欺的ながん治療に引っかかっても、本人も家族もあれが最善だったと最後まで信じたい。亡くなった後もです。あれが詐欺だった、騙されていたという烙印を自分で押したくない。認めたくない。納得したい。そういう難しさがあります。
騙されていたと認めるのは自分を責めるようなものですから。
岩永
それはつらいことですよね。また、標準治療を受けたからといって、必ずしもがんは治るわけではありません。標準治療が万能ではないことが、代替医療のマイナス面を見えにくくしているのではないかとも思います。
大須賀さん
そういう時に詐欺的な治療に引っかからないように、事前に「こういうビジネスがあって、患者に売り込む人がいっぱいいるから気をつけてください」と説明してわかっておいてもらわなければいけない。
病院にかかる前に、僕らのようなSNSで発信している医師が、「こういうことがあると知っておいてください」と伝えなければいけないのかもしれません。
あらかじめわかっていたら、「標準治療をやればいい」というところからスタートできます。そうなれば、だいぶん違ってくると思います。
発信者を信用してもらった上で、届くものがある
岩永
発信による手応えは感じますか?
大須賀さん
ブログを始めてからまもない頃に、もともと製薬企業で働いていたがん患者さんがコメントをよく寄せてくれていたのです。「これはがん患者に役立つと思う」とか「大切な発信なので続けてください」とコメントをくれて、続ける励みになっていました。
その患者さんが亡くなった時のご家族とのやり取りをブログ記事に書いたのですが、イベントの時にその記事を読んで声をかけてくれたがん患者さんがいました。その人は「抗がん剤は危ない」と訴える記事を読んで怖くなって標準治療から一度離れ、食事療法をやっていた人でした。私のそのブログ記事を読んだことがきっかけで標準治療に戻ったと教えてくれました。
驚いたのは、その記事は別に「標準治療をやりましょう」と呼びかける記事ではなかったことです。ただ、がん患者さんとの思い出を書いた記事でした。
でもそのがん患者さんはその記事を読んで、「ああ、こういう優しい気持ちを持っているお医者さんが言うことならば信頼できる」と思って、ほかのブログ記事も読んだそうです。
そこで抗がん剤ってこういうメカニズムなのか、こうやって効くのか、みんなやっている治療なのだと気づいて、徐々に誤解が解けていった。それで標準治療に戻ったということでした。
そして「大須賀先生のおかげで命が救われた」と言ってくれたのです。その時に私がハッとしたのは、情報発信は、ただ単に正確な情報を書けばいいというものではない、ということです。結局、発信者の私を信用してくれることが前提にあって、そこでようやく届くのだなということに気付かされたのです。
岩永
エビデンスがあることはもちろん重要ですが、その患者さんが先生の書くものを信用したのは患者さんとの優しいやりとりがあったからなのですね。もし先生がアグレッシブに患者さんとケンカするような人だったら、読む気にもならなかったかもしれない。
大須賀さん
でも、視聴者がそのYouTuberの人柄を知っていて、信頼できる、面白いなどの理由でその人にとってのスターになっていれば、ただその人がご飯を食べているところを映しただけでも楽しく見られるかもしれません。
それと同じで、医療情報も、発信者のキャラクターが背景にあって、信用してくれて、読者や視聴者は、自分もこういうところに気をつけようと受け止めてくれるのだと思います。
岩永
医師がそこまで考えて情報発信するのは大変そうですね。
大須賀さん
その中で医療情報の発信をライフワークとして続けるために、いろいろと工夫をしています。最近ではTwitter(現・X)のスペースやVoicyを使った音声による発信などに最近シフトしています。時間を使わずに済むからです。できるだけ時間をかけずに、どう情報発信していくかが今の課題です。
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