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【闘病】「病気を親のせいにしたことを後悔」遺伝性で治療法もない脊髄性筋萎縮症とは

 更新日:2023/03/27
~実録・闘病体験~ 「病気を親のせいにしてしまったことを後悔」遺伝性で治療法もない脊髄性筋萎縮症とは

健康な人がちょっと風邪を引いただけでも「あの日、薄着で寝なければ良かった」「人混みに出かけなければ良かった」など、きっかけや原因を考えて後悔をするものです。しかし、その病気が「遺伝性」で「治療法がなく」、「進行性」であった時、人はどこに想いを向け、どのように現実と折り合いをつけようとするのでしょうか。闘病者の木明さんは、2歳の時に脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されました。治療法がなく、今後も進行していくという絶望から、現在の生活に至るまでの、たくさんの葛藤を話してくれました。

※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2022年2月取材。

木明 翔太郎さん

体験者プロフィール
木明 翔太郎

プロフィールをもっと見る

1994年生まれ、札幌市在住。脊髄性筋萎縮症という進行性の筋疾患を抱えながら普通学級に通い、北海道大学法学部卒業と同時に行政書士事務所独立開業。人生のモットーは努力の天才。電動車いすに乗りながら日本一イケてる行政書士を目指すとともに、どんなに障がいが重くても努力次第で自分らしい生き方を実現できること、人生を謳歌できる可能性をSNSで発信中。

村上 友太

記事監修医師
村上 友太
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。

母親と手を繋いで歩いていたら…

母親と手を繋いで歩いていたら…

編集部編集部

最初に不調や違和感を覚えたのはいつですか? どういった状況だったのでしょうか?

木明 翔太郎さん木明さん

はっきりとした記憶はないのですが、母によると、2歳の時、手をつないで歩いていると何もないところでいきなり転ぶことが何度もあり、不思議に思って病院に連れて行ったというのがきっかけだったようです。

編集部編集部

受診から、診断に至るまでの経緯を教えてください。

木明 翔太郎さん木明さん

筋ジストロフィーなど筋疾患専門の病院へ行くようになり、転んだ状態から立ち上がる際の特徴のある動作パターンを見て、すぐに脊髄性筋萎縮症(SMA)だと診断がついたそうです。体幹の筋肉だけでは起き上がることができないためにそのようになってしまうようです。

編集部編集部

どんな病気なのでしょうか?

木明 翔太郎さん木明さん

脊髄性筋萎縮症は、全身の筋力が徐々に失われていく病気です。進行スピードやどこから進むかなどは個人差があります。立つ、歩くといった一般的な動作能力のほか、呼吸をする、ものを飲み込む、姿勢を保持するなども筋肉を使っているので、そういった機能にも影響が出ます。

編集部編集部

どのような治療やリハビリなどを受けてきたのですか?

木明 翔太郎さん木明さん

一番つらかった治療は、合併症で側弯症を発症した時のことです。背筋や腹筋など体を支える筋力の低下にともない背骨が弯曲してしまい、周辺の神経を圧迫していて、「このままだと寝たきりになりかねない」と言われ、大学4年の夏に手術を受けました。脊椎固定術といって、背骨をインプラントで固定するという手術でしたが、とにかく激痛に体が耐えきれず、さらに肺炎なども併発してしまい、本当に大変でした。

編集部編集部

今はどのような治療をしているのですか?

木明 翔太郎さん木明さん

今は去年の秋頃にできた新薬「エブリスディ」の投与と、週2回の訪問リハビリを受けています。「エブリスディ」は、脊髄性筋萎縮症患者の運動機能の改善・維持の薬です。治療しているという感覚はあまりないですね。

母の死と、PTSD

母の死と、PTSD

編集部編集部

病気がわかったときの心境について教えてください。

木明 翔太郎さん木明さん

診断がついた時はまだ幼かったこともあり実感が薄かったのですが、やはり思春期に入ってからは嫌でも病気を意識するようになりました。普通学級に通っていたので、特に周りとのギャップを強く感じ、悔しさでひどく落ち込み、病気を親のせいにして恨んだ時期もありました。たくさんの葛藤を経て、時間をかけてやっと「ギャップやハンデは努力で埋めるしかない」と捉えられるようになりました。

編集部編集部

病気の前後で変化したことを教えてください。

木明 翔太郎さん木明さん

人と関わる機会が絶対的に増えました。車椅子生活になっても、最初の時期は自分一人でもふらっとでかけて買い物やご飯を食べたり、トイレができたりしていましたが、今は何をするにも人の助けが必要です。ヘルパーさん、友達、街中にいる人々などにその都度頼むのも面倒くさいし、相手からも面倒だと思われるのではないかと思い、最初は嫌でしたが、今では「自分はこういうことが好きで、ここにいきたくて、だからこういう手伝いをしてほしい 」と自分自身をありのままに伝える大切さに気付きました。「君と色々話したいしご飯も食べたいけど自分じゃできないから助けてほしい」と友達に伝える勇気もつきました。

編集部編集部

今までを振り返ってみて、後悔していることなどありますか?

木明 翔太郎さん木明さん

やはり人を恨んでしまったことですね。母は障がい児を育てるストレスなどで精神疾患を抱えてしまい、私が20歳のときに自ら命を断ってしまいました。私はこの病気を親のせいにして、母親との仲がうまくいかず喧嘩が耐えない時期がありました。もう少し早く、病気や自分自身の生き方を受け入れることができていたら何か違った結果があったのではないかと後悔する毎日です。母が亡くなったあとは、私自身もPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状に苦しめられる日々が続きました。しかし、そうしていても何も変わらないので、この現実を忘れず教訓として胸に刻んでいこうと思っています。

進行性なので、今できることも失われていきます

進行性なので、今できることも失われていきます

編集部編集部

現在の体調や生活はどうですか?

木明 翔太郎さん木明さん

大学卒業とともに行政書士事務所を開業し、現在6期目を迎えたほか、各種法人役員などを務め、経営者として学びながら一人の人間として自分の人生を謳歌しています。体にムチを打ちながら日々生きていますが、ムチを打ちすぎてお医者さんには怒られています(笑)。

編集部編集部

とてもアクティブですね。

木明 翔太郎さん木明さん

自分自身が病気であるという現実を知ったとき、自分にはできないことが多すぎると自覚し絶望しました。今の現実を見ても自分一人で出来ることが人より少ないのに、進行性の病気であり、今できることもこれから失われていくという現実が目の前にありました。そこで諦めるか、乗り越えようと努力するか、選ぶのは自分です。決断を迫られたとき、努力の方を選ぶと決めました。

編集部編集部

「諦めない」ということでしょうか。

木明 翔太郎さん木明さん

もちろん現実的に全て諦めないというのは無理でした。例えば、働くことひとつ取っても、体を使う仕事で人に勝る道は諦めました。代わりに知識で勝てる道を選びました。同様に、体を動かすことで友人との時間を楽しむことは諦め、お洒落をほかの人と楽しむ道を選びました。友人とショッピングを楽しんだり、モデル活動もしたりしています。けっこう車イスでお洒落を楽しむことを諦めがちな人が多いんですよ。もちろん簡単な道ではなかったですが、「病気だからこれはできない」と投げ捨てるより、多少努力が必要でもその努力が時に辛くても、しがみつく大切さを学びました。

編集部編集部

医療機関や医療従事者に望むことはありますか?

木明 翔太郎さん木明さん

生命体として生きるためにも医療技術は必要ですが、自分たち難病患者は基本的に一生その難病と付き合って生きていかなきゃいけません。一定の医療、療養生活が終わったあと、社会生活を送る上では、病気とうまく付き合いつつ生活していかなくてはならないのです。プライベートな話にはなりますが、この患者さんは普段どんな仕事をし、どんな趣味があって、どんな友達や恋人がいるのだろうかという、その患者を取り巻く社会生活にも注目してもらえたら嬉しいです。

編集部編集部

最後に、読者に向けてのメッセージをお願いします。

木明 翔太郎さん木明さん

このようなメディアを、私も病気を発症した当初に知ることができていれば、もっと早くに自分自身の病気を受け入れられていたかもしれないと思います。私自身、病気を受容するのに悩んでいる時期に、「こんな風になりたい」と思える憧れの対象がいなかったのを覚えています。なので今は、逆に自分がそういう対象になることができるよう日々奮闘中です。少しでもこのようなメディアの発信、皆様の情報共有を通じて闘病中でも人生を楽しむことができる仕組みと気持ちづくり、社会づくりをお手伝いすることができればいいなと思います。

編集部まとめ

さまざまな葛藤を経て、「一人の人間として自分の人生を謳歌する」ことを選んだ木明さん。「病気の受容で悩んでいる人の憧れの対象になりたい」という思いに、優しさと強さを感じました。貴重なお話をありがとうございました。

この記事の監修医師