【闘病】『スキルス胃がん』の夫を看取った経験と“民間療法”に走った後悔から生まれたモノ

2015年にスキルス胃がんで夫・哲也さんを亡くした轟浩美さん。「家にいたいんじゃなくて、家族と過ごしたいということだったんだ」。病院で夫がぽつりと漏らした言葉が、轟浩美さんの心に深く残っているといいます。在宅ケアの限界に直面し、「家で看取る」という約束を手放したとき、逆説的にも夫婦の会話は増え、最期の3週間は「かけがえのない宝物」になったそうです。迷い、苦しみながらも夫婦で見つけた「本当に大切なこと」。その経験を、同じ立場の家族に届けたいと語る轟さんに話を聞きました。

轟 浩美(とどろき ひろみ)
一般社団法人 igannet 代表理事・全国がん患者団体連合会事務局長。東京都出身、お茶の水女子大学卒業後、幼稚園教諭として勤務。夫をスキルス胃がんで亡くした経験を契機に患者・家族支援活動に関わり、10年にわたりスキルス胃がん患者家族会「希望の会」を主導、その後組織を解散し、がん患者支援の範囲を胃がん全体へと広げ igannet を設立。がん患者と医療者の情報格差是正や科学的根拠に基づく意思決定の促進、制度改善に取り組む。厚生労働省のがん対策推進に関与したほか、患者視点の政策提言や国際連携にも注力している。
1年間「胃炎」と言われ続けた末の告知、民間療法に走った後悔

編集部
2013年12月、夫の哲也さんからスキルス胃がんの診断を知らされた瞬間のお気持ちを聞かせてください。
轟さん
夫の血縁にはがんが多かったので、「いつかがんになるかもしれない」という想いは夫婦で共有していました。実際、夫は1年ほど前から体の不調を感じていて、対策型検診でも要精査になっていました。でも、複数の医療機関でバリウム検査も胃カメラも受けた結果、「胃炎」と言われ続けました。原因不明の不調は「メンタル的なもの」とも言われて、1年間そのまま過ごしてしまったのです。
編集部
それは悔しかったでしょうね。
轟さん
だからこそ告知を受けた瞬間、私は「どうして」という想いでいっぱいでした。「不調を訴えていたのに、早期発見のために自分たちができることをやってきたのに」と、衝撃を受けました。
編集部
そのとき、哲也さんの反応はいかがでしたか?
轟さん
夫は「ほっとした」と言いました。1年間ずっと「なぜこんなに具合が悪いのに原因がわからないんだろう」と苦しんでいたので、ようやく原因がわかったという安堵があったのだと思います。この時点で、私たち夫婦のスタートラインはすでに違っていました。
編集部
「とにかく夫を助けたい」という想いで、民間療法を含めてさまざまなことを試したと聞きました。
轟さん
個人的には、とても後悔しています。胃がんで摂取量が限られているのに、余計なものを口に入れさせてしまった。その結果、栄養状態が悪くなり、治療に影響が出てしまいました。ただ、この経験が私の活動の原点になっています。日本では科学的根拠、いわゆるエビデンスを知る機会が本当に少ない。「頑張って乗り越えた」という体験談は広まりやすいのに、それが科学的にどうなのかという視点は抜け落ちてしまう。また、ドラマや映画作品の影響もあったと思います。「神の手」を持つ医師がエビデンスを無視して患者を救う。そんなストーリーがどこかで刷り込まれていました。
編集部
藁にもすがりたい状況だったかと推察します。
轟さん
厄介だと思ったのは、どんな民間療法にも医療者が関わっていることです。「○○大学名誉教授推薦」といった肩書きがついていると、一般人はそれだけで信じてしまう。私は医師免許を持つ先生を平等に信じていました。医師の中にも違いがあるということを、当時の私は理解していなかったのです。
私が一番試したのは「ゲルソン療法」というものです。「日本でも医療者が実践していて、アメリカには専門の病棟まである」という情報を見つけました。食事やサプリメントなど「自分で実践できること」だったことも影響としては大きかったです。だから案外、高額な民間の免疫療法には手を出さなかったんですよね。
編集部
ご夫婦の間で、病気に対する向き合い方に違いがあったとのことですが、当時はどのように感じていましたか。
轟さん
夫が「ほっとした」と言ったときは、正直驚きました。「ほっとしたじゃないでしょう」と思いましたから。でも後になって、夫が取材で語っていたことを間接的に聞いて、もっと驚いたんです。
夫は理系の研究職で、エビデンスの重要性は人一倍わかっている人でした。それなのに、なぜ民間療法を受け入れたのか。それは、自分が死んでいくときに「あのときあれをやっていたら助かったんじゃないか」と家族に思わせないためだったんです。
全部試して、それでも死んだのだと。夫は告知された瞬間から死を覚悟していて、残される家族が後悔しないようにと考えていた。私はそれを知りませんでした。
私は降ってくる情報に引き込まれながら、「自分が気づかずにやらなかったことがあったら嫌だ」と必死で検索を続けていました。でも検索するワードは、自分の経験や望みからしか出てきません。そうやって出てきた結果をどんどん追いかけてしまった。この経験が、10年間の活動の原点になっています。
「家にいたい」の本当の意味とは?

編集部
お母様を火事で亡くされた9ヶ月後に患者会を立ち上げ、さらに2年後には夫が旅立たれれました。この激動の時期を支えたものは何だったのでしょうか?
轟さん
夫のスキルス胃がん告知の1ヶ月後に、母を火事で亡くしました。その2ヶ月後には、30年近く勤めた職場を追われることになりました。がんと就労の問題は患者本人だけでなく、家族にも影響があります。私は教員で管理職だったので休みも取れず、仕事を諦めざるを得なかった。人生としてはどん底でした。何が私を支えていたのかというと、たぶん、夫が生きていたからだと思います。「この人を支える。世界を全部敵に回しても、私がこの人を支えるんだ」という想いだけで動いていました。
編集部
「家で看取る」という約束をしていたところ、「このままでは2人とも潰れてしまう」と訪問看護師さんに言われたそうですね。
轟さん
夫の父もがんで、自宅で看取った経験があったので、自分たちにもできると思っていました。でも、骨転移と呼吸苦という症状は想像を超えていて、在宅医療では限界がありました。夫は「これ以上生きたら家族の負担になる」と言い始めました。私はそれを言わせてしまっている自分が悪いんだと思いました。在宅医療は、医療者が来てくれるのは24時間のうちほんの30分か1時間。それ以外はすべて家族が背負います。訪問看護師さんが「レスパイト(一時的な休息)を取らないと2人とも潰れる」と言ってくれて、病院に入りました。すると、機器が違うので呼吸苦や痛みの取れ方が全然違う。ナースコールを押せば来てくれる。そのとき夫がぽつりと言ったのです。「『家にいたい』ってどういうことだったんだろう?」と。家にいたいのではなくて、家族と過ごしたいということだったなら、家の中にこだわらなくてもいい。こうやって助けを借りて、家族も楽になって、話す時間が増えている方が、自分が望んでいたことだよねと。
編集部
場所ではなく、どう過ごすかが大事だと。
轟さん
この経験から、ACP(アドバンス・ケア・プランニング/人生会議)では「どこで最期を過ごしたいですか」と最初から決めさせるのではなく、「何をしたいのか」という価値観を聞いて、一緒に考えることが大切だと発信しています。気持ちは1日の中でも揺らぐもの。その揺らぎを認めて、決めさせるのではなく共に考える姿勢が必要なんです。
最期の3週間が「かけがえのない宝物」に

編集部
病院での最期の3週間が「かけがえのない宝物」になったそうですね。
轟さん
家にいたら、食事から洗濯、高カロリー輸液の交換まで、医療者でもないのに全部背負っていました。それから解放されて、本当に会話する時間が増えたんです。死期が迫っていることはお互いにわかっていました。だからこそ、子どもも含めて、その後の私たちの人生の礎となるような本質的な会話ができた。この3週間があったから、その後を生きていけたと思っています。
編集部
哲也さんが最期に「出会えてよかった」と言われたそうですね。その言葉をどう受け止めていますか?
轟さん
ありがたいと思っています。実はその前に、ある先生から夫への伝言がありました。「自分は親に『あなたの子供でよかった』と言えなかった。先に旅立つなら、ちゃんと言葉を残した方がいい」と。それを伝えていたので、夫の最期は母への感謝の言葉でした。その流れで、私にも言ってくれたのだと思います。「ちゃんと言葉で表さないとダメだ」ということを、夫も認識していたのでしょう。嘘じゃないと思いますけど、私のために残してくれた言葉だと受け止めています。
編集部
哲也さんを亡くされた後、どのように生きようと思われましたか?
轟さん
夫が亡くなった直後、「あなたの居場所のために患者会を作った」「夫の遺志を継ぐんですね」とよく言われましたが、違うんです。これは私の意思なんです。告知の瞬間から家族として衝撃を受け、私の立場で感じてきたことがある。夫がいなくなって語り部として語るのではなく、私自身のこととしてやらないといけない。その意識が、夫を亡くした直後にはっきりと芽生えました。轟哲也の妻であることは変わりませんが、妻として生きるのではなく、轟浩美として、「私がそう思うからやっている」という姿勢でなければ続かない。そう思わないと、きっとやれなかったと思います。
編集部まとめ
「後悔している」と率直に語る轟さんの言葉には、同じ立場の家族へ届けたいという強い思いがにじんでいた。民間療法への傾倒、在宅ケアの限界、そして「家で看取る」という約束を守れなかった葛藤——すべての経験を隠さず語ることで、今まさに迷いの中にいる誰かの道標になろうとしている。「夫の遺志を継ぐ」のではなく「轟浩美として生きる」という決意。その姿勢こそが、10年以上にわたる活動を支えてきた原動力なのだろう。

