【闘病】「病気を親のせいにしたことを後悔」遺伝性で治療法もない脊髄性筋萎縮症とは(1/2ページ)

健康な人がちょっと風邪を引いただけでも「あの日、薄着で寝なければ良かった」「人混みに出かけなければ良かった」など、きっかけや原因を考えて後悔をするものです。しかし、その病気が「遺伝性」で「治療法がなく」、「進行性」であった時、人はどこに想いを向け、どのように現実と折り合いをつけようとするのでしょうか。闘病者の木明さんは、2歳の時に脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されました。治療法がなく、今後も進行していくという絶望から、現在の生活に至るまでの、たくさんの葛藤を話してくれました。
※本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。2022年2月取材。

体験者プロフィール:
木明 翔太郎
1994年生まれ、札幌市在住。脊髄性筋萎縮症という進行性の筋疾患を抱えながら普通学級に通い、北海道大学法学部卒業と同時に行政書士事務所独立開業。人生のモットーは努力の天才。電動車いすに乗りながら日本一イケてる行政書士を目指すとともに、どんなに障がいが重くても努力次第で自分らしい生き方を実現できること、人生を謳歌できる可能性をSNSで発信中。

記事監修医師:
村上 友太
※先生は記事を監修した医師であり、闘病者の担当医ではありません。
母親と手を繋いで歩いていたら…

編集部
最初に不調や違和感を覚えたのはいつですか? どういった状況だったのでしょうか?
木明さん
はっきりとした記憶はないのですが、母によると、2歳の時、手をつないで歩いていると何もないところでいきなり転ぶことが何度もあり、不思議に思って病院に連れて行ったというのがきっかけだったようです。
編集部
受診から、診断に至るまでの経緯を教えてください。
木明さん
筋ジストロフィーなど筋疾患専門の病院へ行くようになり、転んだ状態から立ち上がる際の特徴のある動作パターンを見て、すぐに脊髄性筋萎縮症(SMA)だと診断がついたそうです。体幹の筋肉だけでは起き上がることができないためにそのようになってしまうようです。
編集部
どんな病気なのでしょうか?
木明さん
脊髄性筋萎縮症は、全身の筋力が徐々に失われていく病気です。進行スピードやどこから進むかなどは個人差があります。立つ、歩くといった一般的な動作能力のほか、呼吸をする、ものを飲み込む、姿勢を保持するなども筋肉を使っているので、そういった機能にも影響が出ます。
編集部
どのような治療やリハビリなどを受けてきたのですか?
木明さん
一番つらかった治療は、合併症で側弯症を発症した時のことです。背筋や腹筋など体を支える筋力の低下にともない背骨が弯曲してしまい、周辺の神経を圧迫していて、「このままだと寝たきりになりかねない」と言われ、大学4年の夏に手術を受けました。脊椎固定術といって、背骨をインプラントで固定するという手術でしたが、とにかく激痛に体が耐えきれず、さらに肺炎なども併発してしまい、本当に大変でした。
編集部
今はどのような治療をしているのですか?
木明さん
今は去年の秋頃にできた新薬「エブリスディ」の投与と、週2回の訪問リハビリを受けています。「エブリスディ」は、脊髄性筋萎縮症患者の運動機能の改善・維持の薬です。治療しているという感覚はあまりないですね。
母の死と、PTSD

編集部
病気がわかったときの心境について教えてください。
木明さん
診断がついた時はまだ幼かったこともあり実感が薄かったのですが、やはり思春期に入ってからは嫌でも病気を意識するようになりました。普通学級に通っていたので、特に周りとのギャップを強く感じ、悔しさでひどく落ち込み、病気を親のせいにして恨んだ時期もありました。たくさんの葛藤を経て、時間をかけてやっと「ギャップやハンデは努力で埋めるしかない」と捉えられるようになりました。
編集部
病気の前後で変化したことを教えてください。
木明さん
人と関わる機会が絶対的に増えました。車椅子生活になっても、最初の時期は自分一人でもふらっとでかけて買い物やご飯を食べたり、トイレができたりしていましたが、今は何をするにも人の助けが必要です。ヘルパーさん、友達、街中にいる人々などにその都度頼むのも面倒くさいし、相手からも面倒だと思われるのではないかと思い、最初は嫌でしたが、今では「自分はこういうことが好きで、ここにいきたくて、だからこういう手伝いをしてほしい 」と自分自身をありのままに伝える大切さに気付きました。「君と色々話したいしご飯も食べたいけど自分じゃできないから助けてほしい」と友達に伝える勇気もつきました。
編集部
今までを振り返ってみて、後悔していることなどありますか?
木明さん
やはり人を恨んでしまったことですね。母は障がい児を育てるストレスなどで精神疾患を抱えてしまい、私が20歳のときに自ら命を断ってしまいました。私はこの病気を親のせいにして、母親との仲がうまくいかず喧嘩が耐えない時期がありました。もう少し早く、病気や自分自身の生き方を受け入れることができていたら何か違った結果があったのではないかと後悔する毎日です。母が亡くなったあとは、私自身もPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状に苦しめられる日々が続きました。しかし、そうしていても何も変わらないので、この現実を忘れず教訓として胸に刻んでいこうと思っています。



