

監修医師:
高橋 孝幸(医師)
産褥期精神障害の概要
産褥期精神障害とは、出産後数週間(産褥期)に起こる精神的な不調の総称です。
産後のホルモン変動や環境の変化により、多くの女性が精神的に不安定になりやすい時期とされています。
産褥期精神障害には、軽度で一過性のマタニティ・ブルーズ、頻度の高い産後うつ病、まれですが重症な産褥精神病があります。マタニティ・ブルーズは産後数日以内に生じ、涙もろさや情緒不安定が特徴で自然に回復します。産後うつ病は産後2〜4週頃に現れ、抑うつ気分や不安、自責感、不眠などが続きます。産褥精神病は産後数日〜2週間以内に急激に現れ、幻覚や妄想など重篤な症状を伴うため緊急の医療対応が必要です。
産褥期精神障害の原因
産褥期精神障害の原因は一つではなく、生物学的要因と心理社会的要因が複合的に影響すると考えられています。まず生物学的には、出産後に胎盤が娩出されることでエストロゲンやプロゲステロンなどの女性ホルモンが急激に減少し、妊娠中に高まっていた内分泌バランスが一気に変化します。このホルモン急降下は、更年期に数年かけて起こる変化がわずか数日で起きるほど劇的であり、脳内の神経伝達物質(セロトニンやGABAなど)の働きにも影響を与えると考えられています。
実際、近年では産後に低下する産後ホルモン由来の神経ステロイドに着目した治療薬も開発されるなど、この生物学的要因の重要性が示唆されています。また、出産そのものの肉体的ストレスや体力消耗、産後の睡眠不足も脳機能に影響を与えます。特に睡眠不足は感情のコントロールを著しく妨げる要因であり、産後に十分な睡眠が取れない状況が続くと抑うつや焦燥が悪化しやすくなります。
さらに、甲状腺機能の乱れ(例:産後甲状腺炎による一時的な甲状腺ホルモン過剰または不足)などの身体的変調も、気分の不安定さや不安症状を誘発することがあります。実際に、重度の産後出血によって下垂体が損傷を受けホルモン不足となるシーハン症候群では、産後に無気力や意識障害といった精神症状が現れることが知られています。このように産後の急激な内分泌・生理的変化が産褥期精神障害の下地となります。
心理社会的要因では、心理的ストレスが大きな役割を果たします。初めての育児への不安、母親としての責任感によるプレッシャー、出産に伴う生活リズムの激変などは誰にでも起こりうるストレスです。社会的要因として、夫や家族からのサポートが乏しい環境、シングルマザーで育児の負担を一人で背負っている場合、経済的な不安、家族内の不和やDV(家庭内暴力)の存在などは産後うつ病のリスクを著しく高めます。あるメタアナリシス研究では、妊娠中のうつ病や過去のうつ病歴がある女性は産後うつ病の発症リスクが2倍以上に高まること、妊娠糖尿病を患った女性や予定外の妊娠で出産に至った女性も発症率が有意に上昇することが示されています。
日本のガイドラインでも、産後うつ病の発症には望まない妊娠に起因する家庭問題や母体・新生児の合併症、さらには妊娠前からの精神疾患の既往歴が関与することが指摘されています。
以上のように、生物学的変化に心理社会的ストレスや既往歴が重なって複雑に絡み合うことで、産褥期精神障害が引き起こされると考えられています。本人に責められるべき落ち度はなく、出産という大きな出来事によって引き起こされる心と脳の不調といえます。
産褥期精神障害の前兆や初期症状について
マタニティ・ブルーズは一時的な涙もろさ、情緒の乱れが主症状ですが、2週間以上続くと産後うつ病が疑われます。産後うつ病では、喜びや興味の喪失、食欲変化、不眠、不安感、自責感が見られます。
また、不安症や強迫症状が現れることもあります。産褥精神病では、不眠、興奮、混乱状態から幻覚や妄想へ急激に進行します。これらの症状が見られた場合、まずは産婦人科や精神科(心療内科)を受診することが望ましいです。症状が強ければ精神科への直接受診が望まれます。
産褥期精神障害の検査・診断
産褥期精神障害が疑われる場合、専門医は問診と評価尺度を用いて総合的に診断を行います。まず用いられるのが、エジンバラ産後うつ病質問票(EPDS)という産後うつ病のスクリーニング検査です。EPDSは10項目からなり、産後の母親の気分や不安について自己評価します。その合計得点が一定以上(日本では9点以上、欧米では10~13点以上)の場合、産後うつ病の可能性が高いと判断されます。ただし、EPDSはあくまで一次的なふるい分けであり、最終的な確定診断は精神科医など専門家の診察によって下されます。
また、産後の気分変調がほかの原因によるものではないか慎重に評価されます。例えば深刻な貧血や甲状腺ホルモン異常は極度の倦怠感や抑うつ症状を引き起こす可能性があるため、必要に応じて血液検査で甲状腺機能や貧血の有無、栄養状態などを確認します。特に産後2~3ヶ月頃に甲状腺機能が低下する産後甲状腺炎は一過性の甲状腺機能低下症を引き起こし、強い倦怠感や抑うつ状態を招くことがあります。既往の精神疾患や家族歴、症状の持続期間や日常生活への影響も評価されます。
加えて、既往の精神疾患があるかどうかも重要な情報です。以前からうつ病や双極性障害、統合失調症などで治療歴がある場合、産後の症状がそれらの疾患の再発や悪化なのか、新たに発症した産褥期特有のものなのかを判断する必要があります。実際、統合失調症患者さんの約4人に1人が出産を機に精神症状が悪化するという報告や、双極性障害でも出産後すぐの再発率が高い(産後10~19日目に再入院となるリスクが平時の37倍に上る)とのデータがあります。こうした背景も踏まえ、医師は産後女性の心理状態・行動の詳細、出産前後の経過、既往歴、家族歴などを丁寧に聴取し、ほかの身体疾患や精神疾患との鑑別診断を行います。
産褥期精神障害の治療
まず軽度の産後うつ病であれば、第一に充分な休息と周囲のサポートを確保することが基本となります。家族にはできるだけ育児や家事を分担してもらい、母親がまとまった睡眠時間や自分の時間を取れるようにします。例えば、夜間の授乳を夫が哺乳瓶で代行する、実家に数日間手伝いに来てもらう、といった工夫も有効です。
また、心理療法(カウンセリングや認知行動療法など)も効果があります。専門のカウンセラーや臨床心理士に気持ちを聞いてもらい、不安やストレスへの対処法を学ぶことで症状の改善が期待できます。
症状が中等度以上の場合や、自殺念慮がある場合には抗うつ薬の使用を含めた積極的な治療が必要です。現在、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの抗うつ薬は産後うつ病に対する第一選択薬として広く用いられています。授乳中でも安全性が確認されている薬も多くあります。
産褥精神病の治療では、入院による管理が検討されます。妄想や幻覚のある状態では、本人および周囲の安全確保と適切な治療環境の確保のため入院が望ましい場合があります。治療には抗精神病薬や、気分安定薬などを用います。興奮や不眠が強い場合には一時的に睡眠導入剤や鎮静薬を使ってでも眠りを確保します。いずれの場合も、家族や医療機関との密接な連携が重要です。
産褥期精神障害になりやすい人・予防の方法
産褥期精神障害のリスクは、精神疾患歴、妊娠中の気分の落ち込み、家庭や社会の支援不足、予期せぬ出産トラブルを抱える方に高まります。双極性障害や統合失調症の既往歴がある方も注意が必要です。
予防策としては、妊娠中から産後のメンタルヘルスケア計画を立て、家族や周囲が協力体制を整えることが重要です。産後の定期的な健康チェックや、必要に応じて精神科医に相談することもすすめられます。産後うつ病は早期発見と早期治療が重症化の予防につながります。また、母親だけでなくパートナーも産後のうつ状態になる場合がありますので、周囲の理解とサポートが欠かせません。
関連する病気
- 産褥期うつ病
- 産褥期精神病
- 産後不安障害
参考文献
- Wang Z et al. "Mapping global prevalence of depression among postpartum women." Transl Psychiatry, 2021.
- VanderKruik R et al. "The global prevalence of postpartum psychosis." BMC Psychiatry, 2017.
- Liu X et al. "Prevalence and Risk Factors of Postpartum Depression." J Clin Nurs, 2022.
- 日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会編『産婦人科診療ガイドライン―産科編2020』




